石像・石碑の最近のブログ記事

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専務の松岡です。

 

今日は木戸孝允邸址を紹介します。前回までの分(1)(2)(3)(4)(5) (6) (7)はこちらへ。

 

場所は河原町二条を二本北へ上がり、右折(東側)し二筋目(土手町筋)にある「旅館 石長松菊園西館」の前です。


木戸孝允の名は維新前に長州毛利家から授かった名でその前の名は桂小五郎です。小五郞は長州藩の勤王の志士として活躍した人で、前回の池田屋騒動以後、禁門の変(蛤御門の変)が起こり長州藩士たちは撤退を余儀なくされましたが、小五郎だけは京都に潜伏し情報収集に努力していました。その後、同士たちの依頼で帰郷、高杉晋作らのクーデターにより武力倒幕への挙党体制となるなか坂本龍馬・中岡慎太郎たちから薩摩藩との講和を斡旋され、紆余曲折をへて薩長同盟が密約されました。その後、大政奉還、明治維新を成し遂げ薩長主導による明治政府を樹立しました。参議内閣制を整え参議となりますが、西南戦争中に病気に倒れ亡くなりました。

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専務の松岡です。

 

今日は「池田屋騒動之址」碑を紹介します。この石碑は三条河原町東入(現在、飲食店「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」前)にあります。前回までの分(1)(2)(3)(4)(5) (6)はこちらへ。

 


「池田屋騒動」とは幕末の文治元年(1864年)6月5日[旧暦]に新撰組が起こした事件です。祇園祭の宵々山でにぎわう京の町夜の10時ごろ御所を焼き払い、孝明天皇を長州まで連れ出そうと画策する勤皇の志士たちが密会しているとの情報を得た新撰組の近藤勇が、少数の隊士を率いて三条小橋にほど近い池田屋を急襲しました。この事件で志士13名と新撰組隊士3名が死に、その死亡者の中には吉田松陰の甥も含まれています。

 

この事件で明治維新を1年早めた、あるいは1年遅らせたともいわれています。テレビ・映画や小説にもたくさんなっている有名な事件です。興味のある方は調べてみてください。
 

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 今回も、前回に続いてお龍さんの独身時代の寓居跡を紹介します。前回までの分(1)(2)(3)(4)(5)はこちらへ。


 今回紹介するのは「坂本龍馬の妻、お龍さんの独身時代の寓居跡」です。場所は龍馬寓居跡(酢屋)の近くです。酢屋前から東へ木屋町筋(高瀬川を渡る)へ出て、南へ20m程行った左側(東側)。飲食店の多い雑居ビルの前にあります。

 
 お龍さんがここに住んだのは龍馬と知り合ってからなのかその前かははっきりしませんが、寺田屋で働く前に住んでいた所です。二人は寺田屋時代に結婚し、日本人では初めてだったと言われる新婚旅行に行っています(九州)。そのへんのエピソードは「龍馬伝」にいずれ出てくるでしょう。


 「暇ができたら、二人で日本中を旅して廻ろう」と言う龍馬にお龍さんは「世界中を廻りたい」と言ったことがあるそうです。

 

 今回はこれぐらいにします。次回をお楽しみにしていてください。

 

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 専務の松岡です。引き続き、京都にある龍馬関連の石碑を紹介します。

 

 今回は坂本龍馬の奥さんであったお龍(りょう)さんの実家跡を紹介します。前回までの分、(1)(2)(3)(4)はこちらへ。

 


 場所は中京区柳馬場三条下ル東側で「晃庵」という店の前です。龍馬寓居跡からだと、龍馬通りを西に歩いて河原町通りに出たら、北側の交差点(河原町三条)を西へ渡り三条商店街(アーケード)を西に歩いていきます。寺町通りを西へ四筋目が柳馬場通りです。そこを左(南)へ曲がり50mぐらいのところの東側です。

 

 お龍さんの父親は楢崎将作という人で青蓮院宮(のちの中川宮朝彦親王)に仕えた医者でしたが、安政の大獄に連座して捕らえられ獄死しています。その後、お龍さんは母親や弟妹を養うため、小料理屋で働いたり、炊事を手伝いながら家計を支えていましたが、龍馬と知り合ってから寺田屋(伏見)に奉公することになりました。

 

 龍馬が暗殺されてからはあちこちを転々とし、東京へ出て神奈川宿の田中屋という旅籠で仲居さんをした後再婚しています。龍馬との結婚生活は2年足らずでした。

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専務の松岡です。

 

前回前々回に引き続き「龍馬ブー ム」にならって龍馬関連の石碑を紹介します。今回は武市瑞山(半平太)の寓居跡です。この場所も龍馬の寓居跡(酢屋)から歩いて3分ほどのところです。


酢屋前を東に木屋町通りに出、北側へ木屋町三条を越え50m程歩いた右側(東)で、「金茶寮」という料理旅館前にあります。この料理旅館は幕末のころ「丹虎」という名の料亭でした。ここにはかって武市瑞山が使用した部屋も保存されています。


武市瑞山は前回紹介した土佐勤王党の党首です。龍馬とも遠縁にあたり、身近な人物でした。瑞山は尊皇攘夷を掲げ土佐藩の考えを一時は変えましたが、「八月十八日の政変」により失脚し、土佐藩参政吉田東洋暗殺(NHK「龍馬伝」で3月28日に放映されました)の首謀者として前藩主山内容堂によって投獄され、一年半の獄中生活の末、37歳で切腹させられました。

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専務の松岡です。

 

前回に引き続き「龍馬ブーム」ということでやはり、龍馬関連の石碑を紹介します。

 

今日紹介するのは坂本龍馬の同志・中岡慎太郎の寓居跡です。前回紹介した龍馬の寓居跡(酢屋)からゆっくり歩いて10分ぐらいのところにあります。龍馬通りを西行し、河原町通りに出たところで南下して四条河原町交差点の手前50mぐらい(河原町オーパの向かい側)の「京都あぶらとりがみ専門店象」前にあります。

 

中岡慎太郎は龍馬同様土佐藩の出身であり、武市瑞山(半平太)が組織した土佐勤王党の一員として、また尊王攘夷派として全国を駆け巡りました。龍馬が組織した海援隊に対して、中岡は陸援隊を組織しました。龍馬より3歳若く、身長は龍馬が182cmだったのに対し153cm程度と低かったそうです(研究者が紋付から割り出した身長)。また、龍馬と共に薩長同盟を成し遂げたことでも有名です。

 専務の松岡です。

 私は京都に生まれ育ち永年住んでいます。この街を歩いていると必ずといっていいほど遭遇するのは石碑。子供のころは見かける毎に気になり、足を止め彫ってある文字を読んでいたのを思い出します。そこで、ブログでも京都の街なかにある石碑を紹介していこうと思います。


 まず、今年は「龍馬ブーム」ということで
やはり、龍馬がらみの幕末の石碑から。

 

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1.坂本龍馬寓居跡
三条木屋町の一本南に、龍馬通りと言われている通りがあります。その木屋町(高瀬川)を西側(右側)にはいってすぐ北側に酢屋という店があり、そこに龍馬は1年ほど住んでいました。酢屋は280年以上の歴史のある材木店。幕末には大阪から伏見・京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送を独占して非常に繁盛したそうです。また、高瀬川沿いには各藩邸が建ち並び、伏見・大阪との連絡にも格好の場所であったため、ここを海援隊の京都本部にしたといいます。龍馬が住んでいたのは2階で、現在は「ギャラリー・龍馬」として公開されています。

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